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ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂
ローマ歴史地区は、イタリア共和国のローマおよびバチカン市国にあり、1980年にユネスコ世界遺産の文化遺産に登録され、1990年には、アウグストゥスの霊廟、ハドリアヌス帝の霊廟などが拡張登録されています。
この文化遺産は、「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂」として登録されていますが、指定範囲はほとんどがローマ市の城壁内ですが、教皇領のひとつのサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂だけは、城壁外に位置しています。
サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は、4世紀、コンスタンティヌス帝により建築された、聖パウロの墓の上にある聖堂です。
「永遠の都ローマ」は、紀元前7世紀ごろにサビニ人、ラテン人がローマを築いて以来、2600年以上の歴史を持っていています。
中世にはキリスト教世界の中心地として、ルネッサンス期以降は芸術と文化の発信基地として歴史を歩いてきた町なのです。
建造物として主な物は、フォロ・ロマーノ、コロッセオ、コンスタンティヌスの凱旋門、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、サン・ピエトロ大聖堂などがあります。
ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂 Historic Centre of Rome, the Properties of the Holy See in that City Enjoying Extraterritorial Rights and San Paolo Fuori le Mura 所在国:イタリア共和国 バチカン市国 世界遺産登録:1980、1990年 種類:文化遺産 |
ローマ歴史地区は、イタリア共和国のローマおよびバチカン市国にあり、1980年にユネスコ世界遺産の文化遺産に登録され、1990年には、アウグストゥスの霊廟、ハドリアヌス帝の霊廟などが拡張登録されています。
この文化遺産は、「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂」として登録されていますが、指定範囲はほとんどがローマ市の城壁内ですが、教皇領のひとつのサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂だけは、城壁外に位置しています。
サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は、4世紀、コンスタンティヌス帝により建築された、聖パウロの墓の上にある聖堂です。
「永遠の都ローマ」は、紀元前7世紀ごろにサビニ人、ラテン人がローマを築いて以来、2600年以上の歴史を持っていています。
中世にはキリスト教世界の中心地として、ルネッサンス期以降は芸術と文化の発信基地として歴史を歩いてきた町なのです。
建造物として主な物は、フォロ・ロマーノ、コロッセオ、コンスタンティヌスの凱旋門、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、サン・ピエトロ大聖堂などがあります。
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ローマ帝国の国境線
ローマ帝国の国境線は、イングランド北部のスコットランドとの境界線近くにあるハドリアヌスの長城で、1987年に世界遺産登録されました。
ハドリアヌスの長城は、ローマに服従していないピクト人など北方諸部族の進入を防ぐために築かれたもので、ローマ帝国の繁栄と衰退を残す文化的景観が評価されたものです。
その後、2005年にドイツのリーメスが含まれて拡大登録となりました。
2世紀に、ローマ帝国はイギリスまで領土を拡げていましたが、ケルト族のうち、ローマに服従していないピクト人など北方諸部族の進入を防ぐために築いた長城です。
ニューカッスル・アポン・タインからカーライルまでの118kmにも及んだ長城は、壁の高さは4〜5m、厚さ約3mで、後の方で建設された部分は、約2.5mに狭くなっています。
リーメスはラテン語で境界を意味し、ドイツの長城跡(リーメス・ゲルマニクス)を指します。
これは、ローマ帝国が、ゲルマン民族の侵入からライン川・マイン川流域の肥沃な土地と通商路を守るために作られたものです。
リーメスが登録されるまでは、「ハドリアヌスの長城」として登録されていましたが、ドイツによるリーメスが拡大登録されて「ローマ帝国の国境線」と物件名がかわりました。
ローマ帝国の国境線 Frontiers of the Roman Empire 所在国:イギリス ドイツ連邦共和国 世界遺産登録:1987、2005年 種類:文化遺産 |
ローマ帝国の国境線は、イングランド北部のスコットランドとの境界線近くにあるハドリアヌスの長城で、1987年に世界遺産登録されました。
ハドリアヌスの長城は、ローマに服従していないピクト人など北方諸部族の進入を防ぐために築かれたもので、ローマ帝国の繁栄と衰退を残す文化的景観が評価されたものです。
その後、2005年にドイツのリーメスが含まれて拡大登録となりました。
2世紀に、ローマ帝国はイギリスまで領土を拡げていましたが、ケルト族のうち、ローマに服従していないピクト人など北方諸部族の進入を防ぐために築いた長城です。
ニューカッスル・アポン・タインからカーライルまでの118kmにも及んだ長城は、壁の高さは4〜5m、厚さ約3mで、後の方で建設された部分は、約2.5mに狭くなっています。
リーメスはラテン語で境界を意味し、ドイツの長城跡(リーメス・ゲルマニクス)を指します。
これは、ローマ帝国が、ゲルマン民族の侵入からライン川・マイン川流域の肥沃な土地と通商路を守るために作られたものです。
リーメスが登録されるまでは、「ハドリアヌスの長城」として登録されていましたが、ドイツによるリーメスが拡大登録されて「ローマ帝国の国境線」と物件名がかわりました。
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ルクセンブルク市:その古い街並みと要塞群
ルクセンブルク市は、ルクセンブルク大公国の首都で、ペトリュス川がアルゼット川に合流する所に位置しています。
ルクセンブルクは963年にルクセンブルク家の祖先であるアルデンヌ家伯爵ジーゲフロイドが,岩山ボックフェルゼンにあったローマの古城を建て直すことから始まりました。
ペトリュス川とアルゼット川に挟まれた断崖の上にあって、もともとは天然の城塞でしたが、14世紀から15世紀にかけて「ヴェンツェルの環状城壁」と呼ばれる長大な城壁がめぐらされ、さらに堅固な城塞都市になりました。
ルクセンブルクはその位置が軍事戦略拠点として重要だったため、1443年以降約400年に亘り他国の支配下にあり、1886年、ドイツ連邦崩壊で実質的な独立国となります。
その後、永世中立を宣言しますが、要塞の武装解除が義務づけられ、要塞は取り壊されていきますが、1948年に永世中立を放棄したため撤去されずにすんだ城壁や要塞が今に残っています。
ルクセンブルク市:その古い街並みと要塞群 City of Luxemburg: its Old Quarters and Fortifications 所在国:ルクセンブルク大公国 世界遺産登録:1994年 種類:文化遺産 |
ルクセンブルク市は、ルクセンブルク大公国の首都で、ペトリュス川がアルゼット川に合流する所に位置しています。
ルクセンブルクは963年にルクセンブルク家の祖先であるアルデンヌ家伯爵ジーゲフロイドが,岩山ボックフェルゼンにあったローマの古城を建て直すことから始まりました。
ペトリュス川とアルゼット川に挟まれた断崖の上にあって、もともとは天然の城塞でしたが、14世紀から15世紀にかけて「ヴェンツェルの環状城壁」と呼ばれる長大な城壁がめぐらされ、さらに堅固な城塞都市になりました。
ルクセンブルクはその位置が軍事戦略拠点として重要だったため、1443年以降約400年に亘り他国の支配下にあり、1886年、ドイツ連邦崩壊で実質的な独立国となります。
その後、永世中立を宣言しますが、要塞の武装解除が義務づけられ、要塞は取り壊されていきますが、1948年に永世中立を放棄したため撤去されずにすんだ城壁や要塞が今に残っています。