このサイトでは、世界遺産の紹介、案内をしています。
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ヴィエリチカ岩塩坑
2千万年前に海だったヴィエリチカは、地殻変動で陸となり、海水が蒸発して巨大な塩の層ができました。
13世紀にヴィエリチカ岩塩坑の採掘は本格化し、ここでとれた岩塩は「白い金」と呼ばれ、ポーランド王国に大きな富をもたらしました。
7百年をかけて掘られたヴィエリチカの坑道は、深さ3百メートル、総延長3百キロに及び、今でも見ることができます。
ここで働いていた鉱夫たちは、作業の安全を祈願するため、岩塩坑の中に礼拝堂を作りました。
その一つ、地下101メートルにあるキンガ姫の礼拝堂では、今も毎週日曜日ミサが行われています。
この礼拝堂にあるものは、祭壇も彫像もシャンデリアにいたるまで、すべて岩塩でできていて、見るものを驚かせます。
プロの彫刻家ではなく、すべて鉱夫たちが彫ったものです。
<観光で訪れる場合には>
クラクフからミニバスで約30分、降車場所が終点ではなく、バスを降りてからも道がわかりにくいので、個人で訪れると迷ってしまうこともあるといいます。
クラクフ発の現地ツアーを利用すると便利です。
人気の観光スポットですので、夏場はとても混んでいて、場合によっては入り口で一時間以上待たされることもあります。
それでもなんとか坑内に入ると、まずは地下65mまでいっきに階段で下ります。
坑内は大変入り組んでいるため、必ず現地ガイドと一緒の団体行動となります。
クラクフ南東15kmにあるヴィエリチカ岩塩坑は 、中世から現代まで残る岩塩坑で、全部で地下第九層まである採掘坑のうち、ダニオヴィチ立坑の第三層、地下約135mまでが観光コースとして公開されています。
ヴィエリチカ岩塩坑 Wieliczka Salt Mine 所在国:ポーランド 世界遺産登録:1978年 種類:文化遺産・危機遺産 |
2千万年前に海だったヴィエリチカは、地殻変動で陸となり、海水が蒸発して巨大な塩の層ができました。
13世紀にヴィエリチカ岩塩坑の採掘は本格化し、ここでとれた岩塩は「白い金」と呼ばれ、ポーランド王国に大きな富をもたらしました。
7百年をかけて掘られたヴィエリチカの坑道は、深さ3百メートル、総延長3百キロに及び、今でも見ることができます。
ここで働いていた鉱夫たちは、作業の安全を祈願するため、岩塩坑の中に礼拝堂を作りました。
その一つ、地下101メートルにあるキンガ姫の礼拝堂では、今も毎週日曜日ミサが行われています。
この礼拝堂にあるものは、祭壇も彫像もシャンデリアにいたるまで、すべて岩塩でできていて、見るものを驚かせます。
プロの彫刻家ではなく、すべて鉱夫たちが彫ったものです。
<観光で訪れる場合には>
クラクフからミニバスで約30分、降車場所が終点ではなく、バスを降りてからも道がわかりにくいので、個人で訪れると迷ってしまうこともあるといいます。
クラクフ発の現地ツアーを利用すると便利です。
人気の観光スポットですので、夏場はとても混んでいて、場合によっては入り口で一時間以上待たされることもあります。
それでもなんとか坑内に入ると、まずは地下65mまでいっきに階段で下ります。
坑内は大変入り組んでいるため、必ず現地ガイドと一緒の団体行動となります。
クラクフ南東15kmにあるヴィエリチカ岩塩坑は 、中世から現代まで残る岩塩坑で、全部で地下第九層まである採掘坑のうち、ダニオヴィチ立坑の第三層、地下約135mまでが観光コースとして公開されています。
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ヴァレッタ市街
バレッタ(Valletta)は、マルタの首都。
人口7,048人(2000年現在)。
ここを統治していた聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の時代からの建物が数多く残っています。
ルネサンスの理想都市として名高いバレッタは、碁盤の目状に整然と区画された美しい街です。
「マルタストーン」というハチミツ色の石灰岩で作られた町並みは、地中海の陽ざしを浴びて、宝石のように輝き、市内には、莫大な富を費やして築かれた宮殿や大聖堂、邸宅、劇場、病院が軒を連ねています。
第二次世界大戦のドイツ・イタリア軍による空襲で、大きな被害を受けました。
地中海に浮かぶ島国マルタ共和国の首都バレッタの市街は1980年に世界遺産に登録された文化遺産です。
バレッタは16世紀に拡大してきたイスラム教国オスマン帝国からヨーロッパを守るためにヨハネ騎士団が最後の砦として造った城塞都市です。
町には騎士団長の宮殿や聖ヨハネ大聖堂をはじめ、地中海域でもっとも優れた病院といわれた施療院、オスマン軍との戦いで激戦地となった聖エルモ砦などがあります。
ヨハネ騎士団はオスマン帝国撃退後、この地を中心に繁栄しましたが、ナポレオンのマルタ島征服により衰退しました。
ヴァレッタ市街 City of Valletta 所在国:マルタ 世界遺産登録:1980年 種類:文化遺産 |
バレッタ(Valletta)は、マルタの首都。
人口7,048人(2000年現在)。
ここを統治していた聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の時代からの建物が数多く残っています。
ルネサンスの理想都市として名高いバレッタは、碁盤の目状に整然と区画された美しい街です。
「マルタストーン」というハチミツ色の石灰岩で作られた町並みは、地中海の陽ざしを浴びて、宝石のように輝き、市内には、莫大な富を費やして築かれた宮殿や大聖堂、邸宅、劇場、病院が軒を連ねています。
第二次世界大戦のドイツ・イタリア軍による空襲で、大きな被害を受けました。
地中海に浮かぶ島国マルタ共和国の首都バレッタの市街は1980年に世界遺産に登録された文化遺産です。
バレッタは16世紀に拡大してきたイスラム教国オスマン帝国からヨーロッパを守るためにヨハネ騎士団が最後の砦として造った城塞都市です。
町には騎士団長の宮殿や聖ヨハネ大聖堂をはじめ、地中海域でもっとも優れた病院といわれた施療院、オスマン軍との戦いで激戦地となった聖エルモ砦などがあります。
ヨハネ騎士団はオスマン帝国撃退後、この地を中心に繁栄しましたが、ナポレオンのマルタ島征服により衰退しました。
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アムステルダムのディフェンス・ライン
アムステルダムを中心に半径15〜20kmの範囲に135kmの環状をなし、最大間隔3.5kmで構成された軍事目的の堤防の輪。
堤防は45の要塞を互いにつなぐようにできています。
オランダの首都を守るため 、45の砦、水を満たすことのできる干拓地、数々の運河などがネットワークでつながっています。
複雑に仕組まれたたくさんの水門を動かすと、3回目で堤防の外側3kmから10kmほどが水であふれる仕組み。
深さは50cmから1mです。
1920年に完全な要塞のネットワークを完成させたが、堤の外側を幅数キロにわたって水であふれさせて首都を最後の砦とする計画は一度も実行されなかった。
アムステルダムのディフェンス・ラインは陸路攻撃が主流だった時代の最後に作られた砦であると同時に、規模の面でも世界最大級です。
1883年〜1920年にかけてオランダ政府が建設。
治水技術を応用して、洪水をおこさせる仕組を備えています。
48時間で干拓地を0.5〜1.5mの水位で満たします。
水位が浅いのは船での進入を防ぐためです。
世界でも水を防御砦に使った例は他にありません。
1996年世界遺産に登録。
いまでは軍事上の防護ラインとしての機能はありませんが、干拓地の自然や古い防壁(堤防)などが点在し、長閑な風景にアクセントを与えています。
代表的な見学ポイントはエダムとフォーレンダムの間の砦、ウェースプのOssenmarktにある塔など、別の世界遺産に登録されているベームステルの干拓地エリア、前回の花の万博が開催されたハーレマーメアにある数箇所の砦や堤防など公式スポットが45箇所あります。
アムステルダムのディフェンス・ライン Defense Line of Amsterdam 所在国:オランダ 世界遺産登録:1996年 種類:文化遺産 |
アムステルダムを中心に半径15〜20kmの範囲に135kmの環状をなし、最大間隔3.5kmで構成された軍事目的の堤防の輪。
堤防は45の要塞を互いにつなぐようにできています。
オランダの首都を守るため 、45の砦、水を満たすことのできる干拓地、数々の運河などがネットワークでつながっています。
複雑に仕組まれたたくさんの水門を動かすと、3回目で堤防の外側3kmから10kmほどが水であふれる仕組み。
深さは50cmから1mです。
1920年に完全な要塞のネットワークを完成させたが、堤の外側を幅数キロにわたって水であふれさせて首都を最後の砦とする計画は一度も実行されなかった。
アムステルダムのディフェンス・ラインは陸路攻撃が主流だった時代の最後に作られた砦であると同時に、規模の面でも世界最大級です。
1883年〜1920年にかけてオランダ政府が建設。
治水技術を応用して、洪水をおこさせる仕組を備えています。
48時間で干拓地を0.5〜1.5mの水位で満たします。
水位が浅いのは船での進入を防ぐためです。
世界でも水を防御砦に使った例は他にありません。
1996年世界遺産に登録。
いまでは軍事上の防護ラインとしての機能はありませんが、干拓地の自然や古い防壁(堤防)などが点在し、長閑な風景にアクセントを与えています。
代表的な見学ポイントはエダムとフォーレンダムの間の砦、ウェースプのOssenmarktにある塔など、別の世界遺産に登録されているベームステルの干拓地エリア、前回の花の万博が開催されたハーレマーメアにある数箇所の砦や堤防など公式スポットが45箇所あります。