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バターリャの修道院
バターリャの修道院とは、1385年、ポルトガルに侵攻したスペイン・カステーリャ軍に対して数分の一の兵力のポルトガル軍が撃破し、この戦いを記念してポルトガルの独立を死守した勝利のシンボルとして建設された修道院のことです。
バターリャの地名は、ポルトガル語で「戦い」という意味です。
この壮麗な「バターリャの勝利のサンタ・マリア修道院」は、アルコバサの修道院をモデルとして、1388年に建設が着工され、当初は簡素なゴシック様式であったものが、代々の王に引き継がれ、建設されたためマヌエル様式が混在する建物となっています。
バターリャの修道院は、勝利のシンボルに相応しい堂々たるファサードの修道院です。
この修道院の礼拝堂には、創設者のジョアン1世と王妃の仲睦まじく手を繋いで永眠している彫刻のある棺やエンリケ航海王子らの棺があります。
奥行約80m、高さ32mの教会内部は、質素で厳粛な美を感じさせる巨大な空間となっていて、見事な装飾に眼を奪われます。
バターリャの修道院 Monastery of Batalha 所在国:ポルトガル共和国 世界遺産登録:1983年 種類:文化遺産 |
バターリャの修道院とは、1385年、ポルトガルに侵攻したスペイン・カステーリャ軍に対して数分の一の兵力のポルトガル軍が撃破し、この戦いを記念してポルトガルの独立を死守した勝利のシンボルとして建設された修道院のことです。
バターリャの地名は、ポルトガル語で「戦い」という意味です。
この壮麗な「バターリャの勝利のサンタ・マリア修道院」は、アルコバサの修道院をモデルとして、1388年に建設が着工され、当初は簡素なゴシック様式であったものが、代々の王に引き継がれ、建設されたためマヌエル様式が混在する建物となっています。
バターリャの修道院は、勝利のシンボルに相応しい堂々たるファサードの修道院です。
この修道院の礼拝堂には、創設者のジョアン1世と王妃の仲睦まじく手を繋いで永眠している彫刻のある棺やエンリケ航海王子らの棺があります。
奥行約80m、高さ32mの教会内部は、質素で厳粛な美を感じさせる巨大な空間となっていて、見事な装飾に眼を奪われます。
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テルチ歴史地区
テルチ歴史地区とは、チェコ共和国、モラビア地方にあり、首都プラハから南に120kmに位置するチェコの至宝といえる美しい街のことで、15世紀末、イタリアルネッサンスがヨーロッパ全土に広がり、この地にもイタリアの美しい建築様式が伝わったのですが、テルチは奇跡的に、当時のものがそのまま残されています。
「モラビアの真珠」とも称されるとても美しい町、テルチ。
人口僅か7000人の小さな町ですが、中世の風景そのままの街並みが残っています。
その訳はといいますと、16世紀の大火事のあと、丁寧に再建されたのです。
1099年、モラビアの王子オッタ2世が、この地でボヘミアのブジェティスラウ王を破ったのがテルチの最初と言われています。
その後フラデツ家、スラヴァタ家、そしてリヒテンシュタイン家と統治者が変わっていったがそのたびに新しい様式が少しずつ入ってきて現在のような街並みが完成したのです。
チェコの街並みはどこに行っても心落ち着く穏やかで可愛いものが多いのですが、ここもその一つです。
テルチ歴史地区 Historic Centre of Telc 所在国:チェコ共和国 世界遺産登録:1992年 種類:文化遺産 |
テルチ歴史地区とは、チェコ共和国、モラビア地方にあり、首都プラハから南に120kmに位置するチェコの至宝といえる美しい街のことで、15世紀末、イタリアルネッサンスがヨーロッパ全土に広がり、この地にもイタリアの美しい建築様式が伝わったのですが、テルチは奇跡的に、当時のものがそのまま残されています。
「モラビアの真珠」とも称されるとても美しい町、テルチ。
人口僅か7000人の小さな町ですが、中世の風景そのままの街並みが残っています。
その訳はといいますと、16世紀の大火事のあと、丁寧に再建されたのです。
1099年、モラビアの王子オッタ2世が、この地でボヘミアのブジェティスラウ王を破ったのがテルチの最初と言われています。
その後フラデツ家、スラヴァタ家、そしてリヒテンシュタイン家と統治者が変わっていったがそのたびに新しい様式が少しずつ入ってきて現在のような街並みが完成したのです。
チェコの街並みはどこに行っても心落ち着く穏やかで可愛いものが多いのですが、ここもその一つです。
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ディヴリーイの大モスクと病院
ディヴリーイの大モスクと病院とは、1228年から1229年にかけて、ルーム・セルジューク朝の君主であるアフメッド・シャーの手によって、スィヴァスのディヴリーイに建設されたトルコの世界遺産の1つのことです。
ディヴリーイの大モスクと病院は、ビザンティン帝国に代わってアナトリアを支配した、ルーム・セルジューク朝時代の大モスクと、その付属病院です。
13世紀前半の建物で、イスラムとアナトリアの伝統を融合させた、当時の建築の代表作といわれています。
いずれの建築も、扉口には植物文様や幾何学文様、文字などの精緻な装飾がふんだんに施されており、簡素な外壁と好対照になっています。
トルコのアナトリア地方の中央部に ディヴリーイという小都市があり、その丘状の町の最上部に 13世紀のウル・ジャーミイと病院の複合した石造建築があります。
それがディヴリーイの大モスクと病院。
ウル・ジャーミイとは何かというと、イスラーム教の礼拝堂はアラビア語でマスジド、これがなまって英語でモスクといいます。
ディヴリーイの大モスクと病院 Great Mosque and Hospital of Divrigi 所在国:トルコ 世界遺産登録:1985年 種類:文化遺産 |
ディヴリーイの大モスクと病院とは、1228年から1229年にかけて、ルーム・セルジューク朝の君主であるアフメッド・シャーの手によって、スィヴァスのディヴリーイに建設されたトルコの世界遺産の1つのことです。
ディヴリーイの大モスクと病院は、ビザンティン帝国に代わってアナトリアを支配した、ルーム・セルジューク朝時代の大モスクと、その付属病院です。
13世紀前半の建物で、イスラムとアナトリアの伝統を融合させた、当時の建築の代表作といわれています。
いずれの建築も、扉口には植物文様や幾何学文様、文字などの精緻な装飾がふんだんに施されており、簡素な外壁と好対照になっています。
トルコのアナトリア地方の中央部に ディヴリーイという小都市があり、その丘状の町の最上部に 13世紀のウル・ジャーミイと病院の複合した石造建築があります。
それがディヴリーイの大モスクと病院。
ウル・ジャーミイとは何かというと、イスラーム教の礼拝堂はアラビア語でマスジド、これがなまって英語でモスクといいます。