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ティヤ
エチオピアには4つの世界遺産 (文化遺産) があります。
ティヤ (Tiya) はエチオピア南西部の州シェワにある村です。
首都アディスアベバからは南西方向におよそ230km行った所に位置しています。
エチオピアの人口統計では2005年のティヤ村の人口は3363人と小さな村です。
アジスアベバから車で1時間半ほど南西に下った所にあるティヤの遺跡は、もっとも手軽に見ることができる世界遺産です。
様々なモチーフが施された36基の石碑が立ち並ぶティヤはアジスアベバから100kmほど南にある遺跡です。
この石碑群は謎だらけで、今でもいつ頃の年代に、何の為に作られたのか、全くわかっていないそうです。
石碑に描かれているレリーフについても何を意味しているのかなど殆ど何も分っていません。
この石碑群が古代エチオピアの文化を今に伝える遺跡として大変貴重なものとされています。
800年ほど前に造られたという以外は、ほとんど謎とされたままで、見る者の想像力を大いにかき立ててくれます。
ティヤ村周辺では来歴が未解明の石碑群が発見されており、1980年にユネスコの世界遺産に登録されました。
ティヤ Tiya 所在国:エチオピア 世界遺産登録:1980年 種類:文化遺産 |
エチオピアには4つの世界遺産 (文化遺産) があります。
ティヤ (Tiya) はエチオピア南西部の州シェワにある村です。
首都アディスアベバからは南西方向におよそ230km行った所に位置しています。
エチオピアの人口統計では2005年のティヤ村の人口は3363人と小さな村です。
アジスアベバから車で1時間半ほど南西に下った所にあるティヤの遺跡は、もっとも手軽に見ることができる世界遺産です。
様々なモチーフが施された36基の石碑が立ち並ぶティヤはアジスアベバから100kmほど南にある遺跡です。
この石碑群は謎だらけで、今でもいつ頃の年代に、何の為に作られたのか、全くわかっていないそうです。
石碑に描かれているレリーフについても何を意味しているのかなど殆ど何も分っていません。
この石碑群が古代エチオピアの文化を今に伝える遺跡として大変貴重なものとされています。
800年ほど前に造られたという以外は、ほとんど謎とされたままで、見る者の想像力を大いにかき立ててくれます。
ティヤ村周辺では来歴が未解明の石碑群が発見されており、1980年にユネスコの世界遺産に登録されました。
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ティパサ
ティパサは、アルジェリア沿岸部にあるティパサ県の県庁所在地です。
1857年に建造されたその近代的な町並みは、砂浜でひときわ目立っています。
町の名前はアラビア語で「荒廃した都市」の意味を持ちます。
その名前の由来となった古代ローマの遺跡群が町には残り、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
この町は紀元前7世紀にカルタゴが建設し、後にローマの植民地になり、北アフリカでもっとも重要なキリスト教徒住居区になりました。
とくに、後4世紀建造のバシリカ大聖堂はアルジェリア最大の規模を誇りました。
遺跡の管理体制が整わず、破壊や略奪などが多いため、危機遺産に登録されています。
クラウディウス帝のときに古代ローマの軍事拠点とされたあと、市 (municipium) になった。
その都市は海を見下ろす3つの小丘の上に建てられました。
家々のほとんどは中央の丘に建てられましたが、その痕跡は残っていません。
そのかわりに、西の丘の大バシリカ (Great Basilica) とアレクサンデル大聖堂 (Basilica Alexander)、東の丘の聖サルサ大聖堂 (Basilica of St Salsa) の計3つの教会堂、2つの墓地、浴場、劇場、アンフィテアトルムなどの廃墟は残っています。
また、城壁のラインは明瞭に辿ることが出来るし、東の丘のふもとには港跡があります。
ティパサ Tipasa 所在国:アルジェリア 世界遺産登録:1982年 種類:文化遺産 |
ティパサは、アルジェリア沿岸部にあるティパサ県の県庁所在地です。
1857年に建造されたその近代的な町並みは、砂浜でひときわ目立っています。
町の名前はアラビア語で「荒廃した都市」の意味を持ちます。
その名前の由来となった古代ローマの遺跡群が町には残り、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
この町は紀元前7世紀にカルタゴが建設し、後にローマの植民地になり、北アフリカでもっとも重要なキリスト教徒住居区になりました。
とくに、後4世紀建造のバシリカ大聖堂はアルジェリア最大の規模を誇りました。
遺跡の管理体制が整わず、破壊や略奪などが多いため、危機遺産に登録されています。
クラウディウス帝のときに古代ローマの軍事拠点とされたあと、市 (municipium) になった。
その都市は海を見下ろす3つの小丘の上に建てられました。
家々のほとんどは中央の丘に建てられましたが、その痕跡は残っていません。
そのかわりに、西の丘の大バシリカ (Great Basilica) とアレクサンデル大聖堂 (Basilica Alexander)、東の丘の聖サルサ大聖堂 (Basilica of St Salsa) の計3つの教会堂、2つの墓地、浴場、劇場、アンフィテアトルムなどの廃墟は残っています。
また、城壁のラインは明瞭に辿ることが出来るし、東の丘のふもとには港跡があります。
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ケルクアンの古代カルタゴの町とその墓地遺跡
ケルクアンは、北東チュニジアのボン岬の近くにあったカルタゴの都市です。
このフェニキア人(カルタゴ人)の都市は、第一次ポエニ戦争(紀元前264年 - 紀元前241年)の間に放棄されたと見られており、ローマ人によって再建されませんでした。
この街は、ほぼ400年間存在しました。
カルタゴは、フェニキア人の作った豊かで、経済力もある海運都市国家、その豊沃さ故に宿敵ローマ帝国に滅ぼされてしまった国です。
一部分が破壊されるにとどまったので、ケルクアン(町から離れたビット)は古代のカルタゴの最良の遺跡です。
発掘の結果、この遺跡が、紀元前4世紀から紀元前3世紀のものであることが明らかになっています。
建物の配置がはっきり分かる遺跡のここかしこに多くの家の壁が残されています。
またファサード上の有色の粘土も数々残っています。
個々の家は、緻密な都市計画に基づいて標準化されています。
チュニス郊外のカルタゴの町には、ローマ帝国に完全に壊滅されてしまった町の残骸がありますが、本当に壊滅されてしまったため、カルタゴ時代のものはほとんど残っていません。
現在見られる遺跡のほとんどはその後、植民都市として築きあげられたローマ時代のもののみです。
だからカルタゴ時代のものはこの地上から完全に抹殺されてしまったと長年思われていました。
しかし、20世紀になっての調査の結果、カルタゴ時代の町の遺跡がほぼそのままの形で残されている都市がが発見されたのです。
その世紀の大発見の地がここ、ケルクアン。
ここには地球上から消え去ってしまったはずのカルタゴ人の生活が唯一残されている大変重要な遺跡です。
聖壇には柱列が設けられており、また、小さな中庭にはモザイクが見られます。
単純なモザイクの縁石、ドアステップ、敷居、床は、至る所にあります。
現在も、考古学者はケルクアンの発掘を行っています。
しかし、最良の部分はすでに発掘済であると考えられています。
ケルクアンは、カルタゴ、ハドルメトゥム(Hadrumetum、現代のスース)およびウティカ(Utica)と共に、最も重要なフェニキア人の都市のうちの1つでした。
ケルクアンの古代カルタゴの町とその墓地遺跡 Punic Town of Kerkuane and its Necropolis 所在国:チュニジア 世界遺産登録:1985年、1986年 種類:文化遺産 |
ケルクアンは、北東チュニジアのボン岬の近くにあったカルタゴの都市です。
このフェニキア人(カルタゴ人)の都市は、第一次ポエニ戦争(紀元前264年 - 紀元前241年)の間に放棄されたと見られており、ローマ人によって再建されませんでした。
この街は、ほぼ400年間存在しました。
カルタゴは、フェニキア人の作った豊かで、経済力もある海運都市国家、その豊沃さ故に宿敵ローマ帝国に滅ぼされてしまった国です。
一部分が破壊されるにとどまったので、ケルクアン(町から離れたビット)は古代のカルタゴの最良の遺跡です。
発掘の結果、この遺跡が、紀元前4世紀から紀元前3世紀のものであることが明らかになっています。
建物の配置がはっきり分かる遺跡のここかしこに多くの家の壁が残されています。
またファサード上の有色の粘土も数々残っています。
個々の家は、緻密な都市計画に基づいて標準化されています。
チュニス郊外のカルタゴの町には、ローマ帝国に完全に壊滅されてしまった町の残骸がありますが、本当に壊滅されてしまったため、カルタゴ時代のものはほとんど残っていません。
現在見られる遺跡のほとんどはその後、植民都市として築きあげられたローマ時代のもののみです。
だからカルタゴ時代のものはこの地上から完全に抹殺されてしまったと長年思われていました。
しかし、20世紀になっての調査の結果、カルタゴ時代の町の遺跡がほぼそのままの形で残されている都市がが発見されたのです。
その世紀の大発見の地がここ、ケルクアン。
ここには地球上から消え去ってしまったはずのカルタゴ人の生活が唯一残されている大変重要な遺跡です。
聖壇には柱列が設けられており、また、小さな中庭にはモザイクが見られます。
単純なモザイクの縁石、ドアステップ、敷居、床は、至る所にあります。
現在も、考古学者はケルクアンの発掘を行っています。
しかし、最良の部分はすでに発掘済であると考えられています。
ケルクアンは、カルタゴ、ハドルメトゥム(Hadrumetum、現代のスース)およびウティカ(Utica)と共に、最も重要なフェニキア人の都市のうちの1つでした。