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ウム・エル-ラサス(キャストロ・メファ)
ウム・エル-ラサス〔カストロン メファー〕はヨルダンのマバダの南東50?に位置しておりラサス地域と呼ばれてもいます。
ヨルダンのラサス地域には、3世紀末のローマ時代から9世紀のイスラム時代初期までの都市遺跡、即ちローマ時代、ビザンチン時代、初期イスラム時代が連続して残っているもので。
ローマ軍の駐留地として建設されたものでしたが、5世紀になると町に発展してゆき、多くのものが未発掘となってはいますが、いくつかの聖堂の遺跡も発見され、なかでも聖ステファン聖堂の床のモザイク画は、保存状態も良好で、この地域の歴史を伝える貴重なものとして大切に保存されています。
また、かっては修行僧の柱上修行が行われたもので、往時の姿をとどめる塔としては、世界で唯一のものといわれています。
別名の〔カストロン メファー〕はウマイヤ朝時代の地名として呼ばれていたものです。
ウム・エル-ラサス(キャストロ・メファ) Um er-Rasas 〔Kastron Mefa'a〕 所在国:ヨルダン・ハシミテ王国 世界遺産登録:2004年 種類:文化遺産 |
ウム・エル-ラサス〔カストロン メファー〕はヨルダンのマバダの南東50?に位置しておりラサス地域と呼ばれてもいます。
ヨルダンのラサス地域には、3世紀末のローマ時代から9世紀のイスラム時代初期までの都市遺跡、即ちローマ時代、ビザンチン時代、初期イスラム時代が連続して残っているもので。
ローマ軍の駐留地として建設されたものでしたが、5世紀になると町に発展してゆき、多くのものが未発掘となってはいますが、いくつかの聖堂の遺跡も発見され、なかでも聖ステファン聖堂の床のモザイク画は、保存状態も良好で、この地域の歴史を伝える貴重なものとして大切に保存されています。
また、かっては修行僧の柱上修行が行われたもので、往時の姿をとどめる塔としては、世界で唯一のものといわれています。
別名の〔カストロン メファー〕はウマイヤ朝時代の地名として呼ばれていたものです。
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イスファハンのイマーム広場
イスファハンのイマーム広場は首都テヘランから南方約330kmにあり、ザグロス山脈とその支脈の山々に囲まれた標高約1,600mの盆地状の高原にあります。
イラン高原の気候は、エルブルズ、ザグロス両山脈が外洋からの影響をさえぎる自然の障壁となっているため、降水量が年間を通して少なく(高原全体の平均の年降水量は250mm程度)、でありイスファハン州にある水と緑豊かなイスラム都市です。
イマーム広場は、かつて「メイダーニ・シャー」(王の広場)と呼ばれていましたが、正式名称は「メイダーニ・ナクシ・ギャハン」(世界の肖像の広場)と呼ばれていました。
1598 年、首都をイスファハンへ移したシャー・アッバース1世は、大規模な都市計画にもとづいて新しい市街を旧市街の西南方に建設しはじめましたが、その中心となり、芸術の最後美を誇っているのがこのイマーム広場であるのです。
イスファハンのイマーム広場 Meidan Emam Esfahan 所在国:イランイスラム共和国 世界遺産登録:1979年 種類:文化遺産 |
イスファハンのイマーム広場は首都テヘランから南方約330kmにあり、ザグロス山脈とその支脈の山々に囲まれた標高約1,600mの盆地状の高原にあります。
イラン高原の気候は、エルブルズ、ザグロス両山脈が外洋からの影響をさえぎる自然の障壁となっているため、降水量が年間を通して少なく(高原全体の平均の年降水量は250mm程度)、でありイスファハン州にある水と緑豊かなイスラム都市です。
イマーム広場は、かつて「メイダーニ・シャー」(王の広場)と呼ばれていましたが、正式名称は「メイダーニ・ナクシ・ギャハン」(世界の肖像の広場)と呼ばれていました。
1598 年、首都をイスファハンへ移したシャー・アッバース1世は、大規模な都市計画にもとづいて新しい市街を旧市街の西南方に建設しはじめましたが、その中心となり、芸術の最後美を誇っているのがこのイマーム広場であるのです。
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ヒエラポリス-パムッカレ
ヒエラポリス-パムッカレは、トルコ西部にあるユネスコの世界遺産(複合遺産)です。
ヒエラポリスは、温泉保養地パムッカレによって有名になったローマの古代都市です。
紀元前2世紀の建設以降、周辺一帯の農工業の中心地として栄えました。
神殿やローマ劇場などの遺構が、かつての繁栄を伝えています。
ヒエラポリスとは「聖なる都市」という意味です。
ヒエラポリス遺跡はパムッカレの石灰棚の一番上にあり、ローマ帝国時代に地震で壊滅状態になりましたが、その後、復興しました。
しかし再び1354年の大地震で完全に廃墟と化してしまいました。
この町は紀元前190年に建設が始まった殖民都市で、ペルガモン王のエウメネス2世によって建設されました。
この時代の殖民都市としてはかなり内陸部に在り、その点から見ても珍しいものです。
この都市はヘレニズム時代からローマ時代、ビザンティン時代を通し、温泉保養地として繁栄していました。
都市を囲む城壁の内には劇場、神殿、アゴラ、市場、浴場、住居などの跡が残っています。
1887年から始まったドイツの研究チームの本格的な発掘は、現在ではドイツとイタリアの考古学研究チームによって、調査が進められています。
パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味。
地中から豊富なカルシウムと二酸化炭素を含んだ35℃の温泉が湧き出しておりその温泉が地表を流れ落ちるときに石灰質だけが地表に残り、あたり一面、真っ白い石灰棚となりました。
純白の棚田は、あたかも雪が積もったような錯覚に陥ります。
石灰棚は高いところで5〜6m、湯が溜まっている場所の深さは20〜30cmです。
このような景観が約200mの高さに渡って形成されています。
石灰棚には、靴を脱いで入ることができます。
結構、地面が滑りやすいので注意が必要です。
ヒエラポリス-パムッカレ Hierapolis-Pamukkale 所在国:トルコ共和国 世界遺産登録年:1988年 世界遺産の種類:文化遺産、自然遺産 |
ヒエラポリス-パムッカレは、トルコ西部にあるユネスコの世界遺産(複合遺産)です。
ヒエラポリスは、温泉保養地パムッカレによって有名になったローマの古代都市です。
紀元前2世紀の建設以降、周辺一帯の農工業の中心地として栄えました。
神殿やローマ劇場などの遺構が、かつての繁栄を伝えています。
ヒエラポリスとは「聖なる都市」という意味です。
ヒエラポリス遺跡はパムッカレの石灰棚の一番上にあり、ローマ帝国時代に地震で壊滅状態になりましたが、その後、復興しました。
しかし再び1354年の大地震で完全に廃墟と化してしまいました。
この町は紀元前190年に建設が始まった殖民都市で、ペルガモン王のエウメネス2世によって建設されました。
この時代の殖民都市としてはかなり内陸部に在り、その点から見ても珍しいものです。
この都市はヘレニズム時代からローマ時代、ビザンティン時代を通し、温泉保養地として繁栄していました。
都市を囲む城壁の内には劇場、神殿、アゴラ、市場、浴場、住居などの跡が残っています。
1887年から始まったドイツの研究チームの本格的な発掘は、現在ではドイツとイタリアの考古学研究チームによって、調査が進められています。
パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味。
地中から豊富なカルシウムと二酸化炭素を含んだ35℃の温泉が湧き出しておりその温泉が地表を流れ落ちるときに石灰質だけが地表に残り、あたり一面、真っ白い石灰棚となりました。
純白の棚田は、あたかも雪が積もったような錯覚に陥ります。
石灰棚は高いところで5〜6m、湯が溜まっている場所の深さは20〜30cmです。
このような景観が約200mの高さに渡って形成されています。
石灰棚には、靴を脱いで入ることができます。
結構、地面が滑りやすいので注意が必要です。