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ルアン・パバンの町
ルアン・パバンの町(ルアン・パバーンの町/ルアン・プラバンの町)は、仏教と人々との融合を目の当たりにできるラオス人民民主共和国の首都ビエンチャンからバスで10時間(北へ400km)行ったところにある古都です。
早朝、日が昇る前の薄暗いころから朝日が顔を出すころまでに行われる僧侶たちの托鉢が有名です。
托鉢とは、寺院から僧侶が食器を持って歩いてくる沿道に、人々がもち米などの供え物をお備えすることで、人々は、托鉢が途絶えた後に僧侶の後姿を拝みます。
ルアン・パバンの町(ルアン・パバーンの町/ルアン・プラバンの町)は、1353年に成立したラオ族の王国、ランサン王朝の首都として栄え、1975年にパテート・ラオの共産主義革命によりラオス人民民主共和国が成立するまで、王都として繁栄しました。
ルアン・パバンの町(ルアン・パバーンの町/ルアン・プラバンの町)の街並は、1560年にセーターティラート王により立てられたワット・シェントーン(シェントン寺院)をはじめとした中心部に建ち並ぶ多くのラオスの伝統的な仏教寺院や建造物とヨーロッパのコロニアルな家並みとがうまく融合しています。
ルアン・パバンの町 Town of Luang Prabang 所在国:ラオス人民民主共和国 世界遺産登録:1995年 種類:文化遺産 |
ルアン・パバンの町(ルアン・パバーンの町/ルアン・プラバンの町)は、仏教と人々との融合を目の当たりにできるラオス人民民主共和国の首都ビエンチャンからバスで10時間(北へ400km)行ったところにある古都です。
早朝、日が昇る前の薄暗いころから朝日が顔を出すころまでに行われる僧侶たちの托鉢が有名です。
托鉢とは、寺院から僧侶が食器を持って歩いてくる沿道に、人々がもち米などの供え物をお備えすることで、人々は、托鉢が途絶えた後に僧侶の後姿を拝みます。
ルアン・パバンの町(ルアン・パバーンの町/ルアン・プラバンの町)は、1353年に成立したラオ族の王国、ランサン王朝の首都として栄え、1975年にパテート・ラオの共産主義革命によりラオス人民民主共和国が成立するまで、王都として繁栄しました。
ルアン・パバンの町(ルアン・パバーンの町/ルアン・プラバンの町)の街並は、1560年にセーターティラート王により立てられたワット・シェントーン(シェントン寺院)をはじめとした中心部に建ち並ぶ多くのラオスの伝統的な仏教寺院や建造物とヨーロッパのコロニアルな家並みとがうまく融合しています。
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モヘンジョダロの遺跡群
モヘンジョダロの遺跡群は、世界四大文明のひとつと言われるインダス文明を代表する最古、そして最大の都市遺跡です。
モヘンジョダロは、紀元前2500年から紀元前1800年の間、最大4万人が暮らしていたと言われるほど、とても栄えていたと言われていますが、大規模な洪水で衰退したと考えられています。
モヘンジョダロの遺跡群には、穀物倉庫、沐浴用大浴場、焼レンガで造られた住宅、会議用広場、学問所、祭祀場などの遺跡が残されていますが、それらをつなぐ直線道路からもわかるように、緻密な都市計画のもと、造られた都市で、モヘンジョダロの東側には市街地、西側には城塞が配置されています。
モヘンジョダロの遺跡群は、パキスタン・イスラム共和国のインダス川西、シンド州ラールカナから南に36km行ったところにあり、1922年にR・G・バナルジーによる発掘調査で発見されました。
モヘンジョダロの遺跡群 Archaeological Ruins at Moenjodaro 所在国:パキスタン・イスラム共和国 世界遺産登録:1980年 種類:文化遺産 |
モヘンジョダロの遺跡群は、世界四大文明のひとつと言われるインダス文明を代表する最古、そして最大の都市遺跡です。
モヘンジョダロは、紀元前2500年から紀元前1800年の間、最大4万人が暮らしていたと言われるほど、とても栄えていたと言われていますが、大規模な洪水で衰退したと考えられています。
モヘンジョダロの遺跡群には、穀物倉庫、沐浴用大浴場、焼レンガで造られた住宅、会議用広場、学問所、祭祀場などの遺跡が残されていますが、それらをつなぐ直線道路からもわかるように、緻密な都市計画のもと、造られた都市で、モヘンジョダロの東側には市街地、西側には城塞が配置されています。
モヘンジョダロの遺跡群は、パキスタン・イスラム共和国のインダス川西、シンド州ラールカナから南に36km行ったところにあり、1922年にR・G・バナルジーによる発掘調査で発見されました。
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マサダ
マサダは、紀元前にヘロデ一族が立て籠もったことで、難攻不落と言われた岩山の頂上にある要塞の遺跡です。
マサダは、アラム語の『要塞』を意味する『ハ・メサド』に由来すると言われています。
マサダは、イスラエル国のエン・ゲディの南側約25km、死海の西側の絶壁のような岩山の上にあり、その岩山は死海(東)側の高さは400m、麓(西)側の高さは100m、頂上は東西300m、南北600mという菱形をしています。
マサダは、古代イスラエルの歴史家であるフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』によると紀元後70年にエルサレムがローマ軍の手により陥落した後、967人のユダヤ人がマサダに立て籠もりましたが、ローマ軍は15000人もの兵士でマサダを包囲し、紀元後73年に陥落したといわれています。
マサダの周辺には、ローマ軍陣営の遺跡が残されています。
陥落後、マサダに籠城していた女性2人と子ども5人以外のすべてユダヤ人がローマ軍の奴隷になるよりは、と集団自決をしたという話は、抑圧と自由の狭間での人間の闘いの歴史を物語る悲しいエピソードです。
マサダ Masada 所在国:イスラエル国 世界遺産登録:2001年 種類:文化遺産 |
マサダは、紀元前にヘロデ一族が立て籠もったことで、難攻不落と言われた岩山の頂上にある要塞の遺跡です。
マサダは、アラム語の『要塞』を意味する『ハ・メサド』に由来すると言われています。
マサダは、イスラエル国のエン・ゲディの南側約25km、死海の西側の絶壁のような岩山の上にあり、その岩山は死海(東)側の高さは400m、麓(西)側の高さは100m、頂上は東西300m、南北600mという菱形をしています。
マサダは、古代イスラエルの歴史家であるフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』によると紀元後70年にエルサレムがローマ軍の手により陥落した後、967人のユダヤ人がマサダに立て籠もりましたが、ローマ軍は15000人もの兵士でマサダを包囲し、紀元後73年に陥落したといわれています。
マサダの周辺には、ローマ軍陣営の遺跡が残されています。
陥落後、マサダに籠城していた女性2人と子ども5人以外のすべてユダヤ人がローマ軍の奴隷になるよりは、と集団自決をしたという話は、抑圧と自由の狭間での人間の闘いの歴史を物語る悲しいエピソードです。