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マラケシ旧市街
マラケシ旧市街は、迷路のような路地に数々の歴史的建造物が豊富で、世界遺産に登録されています。
また、旧市街の中心「ジャマエルフナ広場」は、文化と交易の中心として栄えて、現代は屋台や大道芸人とそれを囲む人々で賑わっていて、その空間そのものが世界無形遺産となっているのです。
マラケシは、モロッコの中央部、ラバトの南西約280km、アトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置する都市です。
マラケシとは、ベルベル語で「神の国」を意味しています。
2km×3kmの城壁に囲まれた旧市街(メディナ)と、旧市街の西に広がる新市街からなっています。
マラケシは、カサブランカにつぐモロッコ第2の都市で、フェズについで2番目に古い町なのです。
また、旧市街の中心であるジャマーア・エル・フナ広場は、王都だった頃と変わらない活気に満ちあふれています。
マラケシの町は11世紀中頃、ベルベル人の一部族がオアシスに築いた小さな軍営を起源としています。
その後、1070年にはムラービト朝の王都となり、ムラービト朝のユースフ・ブン・ターシュフィン(位1061年〜1107年)は、モスクの建設、潅漑路など本格的に整備されていきました。
また子のアリー・ブン・ユースフ(位1107年〜43年)の時代にもモスクが建設され、1120年にクバ・アル・バディンの霊廟が建設されました。
クバ・アル・バディンは、もとは、アリー・ブン・ユースフ・モスクの一部をなしていたと思われます。
ムラービト朝時代にはもっとたくさんの建造物が建てられたはずでなのですが、ほとんどがムワッヒド朝時代に取り壊されてしまいました。
1147年、ムワッヒド朝の君主、アブド=アル=ムーミニーンが建てたクトゥービヤ・モスクのミナレットは、77mに達し、マラケシの旧市街の象徴的な建造物です。
そのほかムワッヒド朝の君主が宮殿に行く途中に設けられたアーチの周辺に花弁状の文様が同心円状に施されたアグノー門や27の橋脚に支えられたテンシフト橋が架けられました。
マラケシ旧市街 Media of Marrakesh 所在国:モロッコ 世界遺産登録年:1985年 世界遺産の種類:文化遺産 |
マラケシ旧市街は、迷路のような路地に数々の歴史的建造物が豊富で、世界遺産に登録されています。
また、旧市街の中心「ジャマエルフナ広場」は、文化と交易の中心として栄えて、現代は屋台や大道芸人とそれを囲む人々で賑わっていて、その空間そのものが世界無形遺産となっているのです。
マラケシは、モロッコの中央部、ラバトの南西約280km、アトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置する都市です。
マラケシとは、ベルベル語で「神の国」を意味しています。
2km×3kmの城壁に囲まれた旧市街(メディナ)と、旧市街の西に広がる新市街からなっています。
マラケシは、カサブランカにつぐモロッコ第2の都市で、フェズについで2番目に古い町なのです。
また、旧市街の中心であるジャマーア・エル・フナ広場は、王都だった頃と変わらない活気に満ちあふれています。
マラケシの町は11世紀中頃、ベルベル人の一部族がオアシスに築いた小さな軍営を起源としています。
その後、1070年にはムラービト朝の王都となり、ムラービト朝のユースフ・ブン・ターシュフィン(位1061年〜1107年)は、モスクの建設、潅漑路など本格的に整備されていきました。
また子のアリー・ブン・ユースフ(位1107年〜43年)の時代にもモスクが建設され、1120年にクバ・アル・バディンの霊廟が建設されました。
クバ・アル・バディンは、もとは、アリー・ブン・ユースフ・モスクの一部をなしていたと思われます。
ムラービト朝時代にはもっとたくさんの建造物が建てられたはずでなのですが、ほとんどがムワッヒド朝時代に取り壊されてしまいました。
1147年、ムワッヒド朝の君主、アブド=アル=ムーミニーンが建てたクトゥービヤ・モスクのミナレットは、77mに達し、マラケシの旧市街の象徴的な建造物です。
そのほかムワッヒド朝の君主が宮殿に行く途中に設けられたアーチの周辺に花弁状の文様が同心円状に施されたアグノー門や27の橋脚に支えられたテンシフト橋が架けられました。
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