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レプティス・マグナの古代遺跡
レプティス・マグナは、現在のリビアの首都トリポリの東130kmに位置するアル・クムス市にある古代ローマ時代の傑出した北アフリカ最大のローマ都市遺跡です。
トリポリタニアの三都のひとつであったと同時に、アフリカでローマ帝国初の軍人皇帝セプティミウス・セウェルス(在位193〜211)を輩出した都市として知られています。
レプティス・マグナはセプティミウス・セウェルス帝が故郷に錦を飾った町で、2〜3世紀に装飾をほどこした多くの建物を建設し、その治世に絶頂期を迎えました。
広さは4平方km、人口は最大で10万人を抱えていたといわれていますが、ローマ帝国の衰退とともに栄華を誇ったレプティス・マグナも衰退していきます。
5世紀にバンダル人に破壊され、7世紀にはアラブ・イスラム軍に破壊され、とうとうレプティス・マグナはサハラの砂漠の砂に埋もれていき、1921年になって再発見されました。
1300年近く砂漠の下に埋もれていたのですが、砂の中からすぐれた建造物や彫刻などの遺跡が比較的良い保存状態で出現して、ローマを凌ぐローマ遺跡とも呼ばれています。
レプティス・マグナの古代遺跡 Archaeological Site of Leptis Magna 所在国:大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国 世界遺産登録:1982年 種類:文化遺産 |
レプティス・マグナは、現在のリビアの首都トリポリの東130kmに位置するアル・クムス市にある古代ローマ時代の傑出した北アフリカ最大のローマ都市遺跡です。
トリポリタニアの三都のひとつであったと同時に、アフリカでローマ帝国初の軍人皇帝セプティミウス・セウェルス(在位193〜211)を輩出した都市として知られています。
レプティス・マグナはセプティミウス・セウェルス帝が故郷に錦を飾った町で、2〜3世紀に装飾をほどこした多くの建物を建設し、その治世に絶頂期を迎えました。
広さは4平方km、人口は最大で10万人を抱えていたといわれていますが、ローマ帝国の衰退とともに栄華を誇ったレプティス・マグナも衰退していきます。
5世紀にバンダル人に破壊され、7世紀にはアラブ・イスラム軍に破壊され、とうとうレプティス・マグナはサハラの砂漠の砂に埋もれていき、1921年になって再発見されました。
1300年近く砂漠の下に埋もれていたのですが、砂の中からすぐれた建造物や彫刻などの遺跡が比較的良い保存状態で出現して、ローマを凌ぐローマ遺跡とも呼ばれています。
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モシ・オ・トゥニャ/ヴィクトリアの滝
ヴィクトリア滝は、ジンバブエ共和国とザンビア共和国の国境にある滝で、世界三大瀑布の1つです。
他の2つはナイアガラ滝とイグアス滝です。
ジンバブエ共和国とザンビア共和国の2ヶ国が、仲良く同じ年に世界遺産登録してありますので、ユネスコとしては1つの世界遺産としてカウントしています。
ヴィクトリア滝はザンベジ川の中流にあり、最大幅が1,700m、最も深い滝壷は落差が108mあります。
もともとこの滝は、アフリカの現地人によって「モシ・オ・トゥニャ(雷鳴とどろく水煙)」と呼ばれていました。
しかし、イギリスの探検家デイヴィッド・リヴィングストンが、1855年にヨーロッパ人として初めて到達し、自国イギリスのヴィクトリア女王にちなんでヴィクトリア滝と英称がつけられました。
長い年月の間に川の浸食によって滝の位置は少しずつ移動していて、現在の位置の滝は将来なくなってしまうと予想されているようです。
モシ・オ・トゥニャ/ヴィクトリアの滝 Mosi-oa-Tunya/Victoria Falls 所在国:ザンビア共和国、ジンバブエ共和国 世界遺産登録:1989年 種類:自然遺産 |
ヴィクトリア滝は、ジンバブエ共和国とザンビア共和国の国境にある滝で、世界三大瀑布の1つです。
他の2つはナイアガラ滝とイグアス滝です。
ジンバブエ共和国とザンビア共和国の2ヶ国が、仲良く同じ年に世界遺産登録してありますので、ユネスコとしては1つの世界遺産としてカウントしています。
ヴィクトリア滝はザンベジ川の中流にあり、最大幅が1,700m、最も深い滝壷は落差が108mあります。
もともとこの滝は、アフリカの現地人によって「モシ・オ・トゥニャ(雷鳴とどろく水煙)」と呼ばれていました。
しかし、イギリスの探検家デイヴィッド・リヴィングストンが、1855年にヨーロッパ人として初めて到達し、自国イギリスのヴィクトリア女王にちなんでヴィクトリア滝と英称がつけられました。
長い年月の間に川の浸食によって滝の位置は少しずつ移動していて、現在の位置の滝は将来なくなってしまうと予想されているようです。
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モザンビーク島
モザンビーク島は、モザンビーク北部のモザンビーク海峡とモスリル湾の間に位置する島で、長さ3km、幅200 - 500m といった比較的小さな島です。
もともと、ここはアラブ人の港であり、造船所でもあったわけですが、ポルトガルに植民地化され、モザンビークの中心的な都市として機能していました。
ポルトガルが港と海軍拠点を建造し、その後ノサ・セニョラ・デ・バルアルテ礼拝堂が建てられました。
この礼拝堂は、南半球における現存最古のヨーロッパ建築と見なされています。
インド航路におけるポルトガルの重要な拠点としての地位を保持し続け、黒人奴隷、香辛料、金などの交易で栄えていましたが、スエズ運河の開通によって島は衰退に向かっていきました。
16世紀にサン・セバスティアン要塞が建造され、それはポルトガル植民地時代の面影を色濃く残しています。
現在は、約14000人が住んでいる島ですが、ほとんどの史跡は島の北端に集中していて、島民たちのほとんどは、島の南端のマクティという町に住んでいます。
モザンビーク Island of Mozambique 所在国:モザンビーク共和国 世界遺産登録:1991年 種類:文化遺産 |
モザンビーク島は、モザンビーク北部のモザンビーク海峡とモスリル湾の間に位置する島で、長さ3km、幅200 - 500m といった比較的小さな島です。
もともと、ここはアラブ人の港であり、造船所でもあったわけですが、ポルトガルに植民地化され、モザンビークの中心的な都市として機能していました。
ポルトガルが港と海軍拠点を建造し、その後ノサ・セニョラ・デ・バルアルテ礼拝堂が建てられました。
この礼拝堂は、南半球における現存最古のヨーロッパ建築と見なされています。
インド航路におけるポルトガルの重要な拠点としての地位を保持し続け、黒人奴隷、香辛料、金などの交易で栄えていましたが、スエズ運河の開通によって島は衰退に向かっていきました。
16世紀にサン・セバスティアン要塞が建造され、それはポルトガル植民地時代の面影を色濃く残しています。
現在は、約14000人が住んでいる島ですが、ほとんどの史跡は島の北端に集中していて、島民たちのほとんどは、島の南端のマクティという町に住んでいます。