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チャコ文化国立歴史公園
チェコ文化国立歴史公園内のチャコキャニオンは東西に広がる長さ16?ほどの浅い渓谷で、米国ニューメキシコ州サンタフェ北部にある米国最古の集落です。
チェコ文化国立歴史公園内には、12にものぼる大規模遺跡群があり、アナサジ族が中央集権的な文明を築いていた証拠とされています。
最大の遺跡は砂岩で造られたプエブロ・ボニートで、チャコ文化の中心的遺跡です。
これら遺跡群は、アナサジ族の研究をする上で、非常に重要な遺跡群とされており、5世紀ごろから12世紀にかけて築かれた数々の都市遺跡はアナサジ族の高度な文化を物語っています。
しかし、アナサジは西暦1100〜1200年ごろに急速に衰退し、この都市を放棄して「謎の民族」とさえ呼ばれるようになった。
このアナサジの文化を最も深く継承しているのがプエブロの人々であり、今でも先住民族のプエブロ人が伝統の暮らしを守っています。
チャコ文化国立歴史公園 Chaco Culture National Historical Park 所在国:アメリカ合衆国 世界遺産登録:1987年 種類:文化遺産 |
チェコ文化国立歴史公園内のチャコキャニオンは東西に広がる長さ16?ほどの浅い渓谷で、米国ニューメキシコ州サンタフェ北部にある米国最古の集落です。
チェコ文化国立歴史公園内には、12にものぼる大規模遺跡群があり、アナサジ族が中央集権的な文明を築いていた証拠とされています。
最大の遺跡は砂岩で造られたプエブロ・ボニートで、チャコ文化の中心的遺跡です。
これら遺跡群は、アナサジ族の研究をする上で、非常に重要な遺跡群とされており、5世紀ごろから12世紀にかけて築かれた数々の都市遺跡はアナサジ族の高度な文化を物語っています。
しかし、アナサジは西暦1100〜1200年ごろに急速に衰退し、この都市を放棄して「謎の民族」とさえ呼ばれるようになった。
このアナサジの文化を最も深く継承しているのがプエブロの人々であり、今でも先住民族のプエブロ人が伝統の暮らしを守っています。
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サンティアゴ・デ・クーバのサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城
サンティアゴ・デ・クーバのサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城は、1588年、スペインがイギリスの無敵艦隊に敗れたことに危機感を抱いて、そのころスペインの植民地であったキューバ東部を守るべくこの地に築いた要塞です。
スペイン軍の軍事的建造物の傑作と言われる要塞です。
この要塞はキューバ東部のサンティアゴ・デ・クーバ湾を望む断崖上に築かれています。
サンティアゴ・デ・クーバはキューバの南東部にある都市で、サンティアーゴ・デ・クーバ州の州都です。
また16〜17世紀には海賊による密貿易の拠点でもありました。
18世紀になるとハイチ独立で逃れてきたフランス人も住み着き、建物もフランス様式のものも増え、スペイン風、フランス風とさまざまな様式が混在するようになりました。
ただ、サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城は1590年から建設が始まりましたが、設計にはイタリアの軍事建築家が参加しました。
ルネサンス様式を基本設計とし、武器庫や監視塔、砲台を備えた巨大な要塞になりました。
そういう意味ではルネッサンス様式の要塞といえるでしょう。
サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城は1997年に世界遺産に登録されました。
サンティアゴ・デ・クーバのサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城 San Pedro de la Roca Castle, Santiago de Cuba 所在国:キューバ 世界遺産登録:1997年 種類:文化遺産 |
サンティアゴ・デ・クーバのサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城は、1588年、スペインがイギリスの無敵艦隊に敗れたことに危機感を抱いて、そのころスペインの植民地であったキューバ東部を守るべくこの地に築いた要塞です。
スペイン軍の軍事的建造物の傑作と言われる要塞です。
この要塞はキューバ東部のサンティアゴ・デ・クーバ湾を望む断崖上に築かれています。
サンティアゴ・デ・クーバはキューバの南東部にある都市で、サンティアーゴ・デ・クーバ州の州都です。
また16〜17世紀には海賊による密貿易の拠点でもありました。
18世紀になるとハイチ独立で逃れてきたフランス人も住み着き、建物もフランス様式のものも増え、スペイン風、フランス風とさまざまな様式が混在するようになりました。
ただ、サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城は1590年から建設が始まりましたが、設計にはイタリアの軍事建築家が参加しました。
ルネサンス様式を基本設計とし、武器庫や監視塔、砲台を備えた巨大な要塞になりました。
そういう意味ではルネッサンス様式の要塞といえるでしょう。
サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城は1997年に世界遺産に登録されました。
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ビエホ古代遺跡とパナマの歴史地区
パナマといえばパナマ運河ですが、パナマ共和国は16世紀からヨーロッパ人により南米の征服の拠点として栄えました。
1530年代のインカ征服はパナマを拠点として行われ、ペルーや近隣の植民地からスペインへの銀などの物資の輸送は、海路で太平洋側のパナマ・シティへ、陸路でカリブ海側のポルトベロへ、そして海路でスペインへというように行われました。
「パナマ・ビエホ古代遺跡とパナマの歴史地区」のパナマ・ビエホは1519年、征服者ペドラリアス・ダヴィラによって建設されました。
当地はアメリカ大陸の太平洋沿岸における最も古いヨーロッパ人の居留地です。
街は碁盤の目のように整然としており、計画的な街作りの概念がヨーロッパからもたらされたことを示しています。
17世紀の中頃にその機能を取って代わった「新しい町」(現在の「歴史地区」)もまた当初の街路計画と、そのアーキテクチャ、そしてスペイン風、フランス風、アーリーアメリカン風の3つの異なった様式の混在した状態を保存してきました。
これが今でも残る歴史地区です。
一方、古代遺跡はというと、カリブ海側と太平洋側とを結ぶ古代の道がそれです。
この道は「王の道」と呼ばれ、輸送路が整備され、ペルーやボリビアからの荷を運んでいました。
ポルトベロや現在のパナマ運河の航路になっているチャグレス川の河口には当時の要塞が残っており、パナマの歴史地区とは別に世界遺産に登録されています。
ビエホ古代遺跡とパナマの歴史地区 Archaeological Site of Panama Viejo and Historic District of Panama 所在国:パナマ共和国 世界遺産登録:1997年、2003年 種類:文化遺産 |
パナマといえばパナマ運河ですが、パナマ共和国は16世紀からヨーロッパ人により南米の征服の拠点として栄えました。
1530年代のインカ征服はパナマを拠点として行われ、ペルーや近隣の植民地からスペインへの銀などの物資の輸送は、海路で太平洋側のパナマ・シティへ、陸路でカリブ海側のポルトベロへ、そして海路でスペインへというように行われました。
「パナマ・ビエホ古代遺跡とパナマの歴史地区」のパナマ・ビエホは1519年、征服者ペドラリアス・ダヴィラによって建設されました。
当地はアメリカ大陸の太平洋沿岸における最も古いヨーロッパ人の居留地です。
街は碁盤の目のように整然としており、計画的な街作りの概念がヨーロッパからもたらされたことを示しています。
17世紀の中頃にその機能を取って代わった「新しい町」(現在の「歴史地区」)もまた当初の街路計画と、そのアーキテクチャ、そしてスペイン風、フランス風、アーリーアメリカン風の3つの異なった様式の混在した状態を保存してきました。
これが今でも残る歴史地区です。
一方、古代遺跡はというと、カリブ海側と太平洋側とを結ぶ古代の道がそれです。
この道は「王の道」と呼ばれ、輸送路が整備され、ペルーやボリビアからの荷を運んでいました。
ポルトベロや現在のパナマ運河の航路になっているチャグレス川の河口には当時の要塞が残っており、パナマの歴史地区とは別に世界遺産に登録されています。