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八萬大蔵経の納められた伽耶山海印寺(カヤサンヘインサ)
八萬大蔵経の納められた伽耶山海印寺(カヤサンヘインサ)は、大韓民国南部の慶尚南道陝川郡伽耶面にあるユネスコの世界遺産です。
この海印寺は、新羅時代の僧侶、義湘によって、802年伽耶山山中に建立したとされています。
高麗時代に元に攻め込まれた時に火災によって消失しました。
再建後も、また何度か火災にあっています。
1817年に再建されたものが現在の海印寺となっています。
「海印」は、竜王の印のことで三度たたけば願う品物が出るといわれ、昔、この寺に保管されていたと伝えられています。
この海印寺は、世界文化遺産と認定された仏教の経典の集大成である「高麗八萬大蔵経」の版木を所蔵すしています。
また、この大蔵経が奉安されている蔵経版殿は1488年頃のものと推定されていますが、炭、石灰、粘土を利用して梅雨の時期には湿気を吸収し、乾燥期には適度な湿気を保つなど、自然の空調機能をうまくりようしています。
版殿の窓も通風を利用する格子になっています。
「八萬大蔵経(はちまんだいぞうきょう)」版木は、八萬大蔵経は、崔氏政権が仏の力を借りて蒙古の侵略を撃退し、国論を統一するためにつくったものです。
高宗代かからはじまった大蔵経の彫版は、16年の歳月をかけてやっと完成しました。
全部で81,258枚の経版を数えたために「八萬大蔵経」といわれ、また、江華島にあったが朝鮮の太祖以後海印寺に保管されたために「海印寺大蔵経」ともい割れます。
おどろくことに、文字の部分を削るのではなく、文字の回りの部分を削り、一文字一文字すべての文字が浮き彫りになっていて、文字が立体的に浮き立たせているのです。
しかも、誤字や脱字も無い完璧な蔵経で、世界の仏教大蔵経の中で最も優れた手本となっています。
大蔵経版は横72.6cm、縦26.4cm、厚さ3cmの大きさです。
木の材質は、版木のゆがみや虫食いを防止に優れているといわれる南部地方に多い榎木と白樺を使用しています。
それをされに強化するために何年も海水に浸して塩水で蒸してヤニをぬき、日陰に干したものが木版となりました。
1枚の板に文字はだいたい1列に14字ずつ23列を刻まれ、版面の損傷とゆがみを防くために漆が塗られ、四つ角は、青銅の金具がはめられ、通風がよいところに保管され、今完璧な形で残されているのです。
八萬大蔵経の納められた伽耶山海印寺(カヤサンヘインサ) Haeinsa Temple Janggyeong Panjeon, the Depositories for the Tripitaka Koreana Woodblocks 所在国:大韓民国 世界遺産登録年:1995年 世界遺産の種類:文化遺産 |
八萬大蔵経の納められた伽耶山海印寺(カヤサンヘインサ)は、大韓民国南部の慶尚南道陝川郡伽耶面にあるユネスコの世界遺産です。
この海印寺は、新羅時代の僧侶、義湘によって、802年伽耶山山中に建立したとされています。
高麗時代に元に攻め込まれた時に火災によって消失しました。
再建後も、また何度か火災にあっています。
1817年に再建されたものが現在の海印寺となっています。
「海印」は、竜王の印のことで三度たたけば願う品物が出るといわれ、昔、この寺に保管されていたと伝えられています。
この海印寺は、世界文化遺産と認定された仏教の経典の集大成である「高麗八萬大蔵経」の版木を所蔵すしています。
また、この大蔵経が奉安されている蔵経版殿は1488年頃のものと推定されていますが、炭、石灰、粘土を利用して梅雨の時期には湿気を吸収し、乾燥期には適度な湿気を保つなど、自然の空調機能をうまくりようしています。
版殿の窓も通風を利用する格子になっています。
「八萬大蔵経(はちまんだいぞうきょう)」版木は、八萬大蔵経は、崔氏政権が仏の力を借りて蒙古の侵略を撃退し、国論を統一するためにつくったものです。
高宗代かからはじまった大蔵経の彫版は、16年の歳月をかけてやっと完成しました。
全部で81,258枚の経版を数えたために「八萬大蔵経」といわれ、また、江華島にあったが朝鮮の太祖以後海印寺に保管されたために「海印寺大蔵経」ともい割れます。
おどろくことに、文字の部分を削るのではなく、文字の回りの部分を削り、一文字一文字すべての文字が浮き彫りになっていて、文字が立体的に浮き立たせているのです。
しかも、誤字や脱字も無い完璧な蔵経で、世界の仏教大蔵経の中で最も優れた手本となっています。
大蔵経版は横72.6cm、縦26.4cm、厚さ3cmの大きさです。
木の材質は、版木のゆがみや虫食いを防止に優れているといわれる南部地方に多い榎木と白樺を使用しています。
それをされに強化するために何年も海水に浸して塩水で蒸してヤニをぬき、日陰に干したものが木版となりました。
1枚の板に文字はだいたい1列に14字ずつ23列を刻まれ、版面の損傷とゆがみを防くために漆が塗られ、四つ角は、青銅の金具がはめられ、通風がよいところに保管され、今完璧な形で残されているのです。
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古都アユタヤ
世界文化遺産の古都アユタヤは、タイの首都バンコクから、車で約1時間、3つの川の合流地点にあります。
14世紀から18世紀までの約400年もの間、貿易を中心に栄えた、アユタヤ王朝は、北にスコータイ、東にクメール、南にマラッカ王国、西にビルマと、四方を強国に囲まれていましたが、1362年、クメール王朝のアンコールを攻めて領土を広げると、1438年にはスコータイを吸収し、東南アジア最大の国家となりました。
最盛期には、3つの宮殿、100の門、400の寺院、1万体の仏像を要したという古都アユタヤ。
アユタヤはヒンドゥー教の影響を受けたクメールを真似て、王自ら神の化身を名乗り、独裁的で厳粛な法や罰を適用して国を引き締めました。
建築様式もその影響を受けて、仏像ひとつとっても形は数パターンに決められており、豪華絢爛かつ厳格な美術様式で国民を圧倒したのです。
ちなみに現在バンコクで見られる王宮などはこのアユタヤの豪華絢爛を再現したもので、アユタヤはスコータイとともにタイ美術の基礎を磨き上げました。
16世紀になるとポルトガルやスペイン、オランダ、イギリスらと通商条約を結び、アユタヤ王朝は「シャム」と呼ばれ、世界規模の貿易によって大繁栄しました。
アユタヤ王朝と聞いてもピンと来なかった人も、「シャム」や「山田長政」「日本人町」と聞くと、イメージがつかめるのではないでしょうか?山田長政が朱印船でこの国に来たのが1612年で、やがて日本人傭兵隊長となり、日本人町の頭領となったことは有名です。
(小学校の教科書に載っていましたね)アジア各国が次々と植民地化されるなか、アユタヤは欧米列強との巧みな外交政策を通して独立を貫き通しましたが、1767年、ビルマ・コンパウン朝のシンビューシンによって陥落し、400年に及ぶ王朝は幕を下ろしたのです。
古都アユタヤ Historic City of Ayutthaya 所在国:タイ王国 世界遺産登録年:1991年 世界遺産の種類:文化遺産 |
世界文化遺産の古都アユタヤは、タイの首都バンコクから、車で約1時間、3つの川の合流地点にあります。
14世紀から18世紀までの約400年もの間、貿易を中心に栄えた、アユタヤ王朝は、北にスコータイ、東にクメール、南にマラッカ王国、西にビルマと、四方を強国に囲まれていましたが、1362年、クメール王朝のアンコールを攻めて領土を広げると、1438年にはスコータイを吸収し、東南アジア最大の国家となりました。
最盛期には、3つの宮殿、100の門、400の寺院、1万体の仏像を要したという古都アユタヤ。
アユタヤはヒンドゥー教の影響を受けたクメールを真似て、王自ら神の化身を名乗り、独裁的で厳粛な法や罰を適用して国を引き締めました。
建築様式もその影響を受けて、仏像ひとつとっても形は数パターンに決められており、豪華絢爛かつ厳格な美術様式で国民を圧倒したのです。
ちなみに現在バンコクで見られる王宮などはこのアユタヤの豪華絢爛を再現したもので、アユタヤはスコータイとともにタイ美術の基礎を磨き上げました。
16世紀になるとポルトガルやスペイン、オランダ、イギリスらと通商条約を結び、アユタヤ王朝は「シャム」と呼ばれ、世界規模の貿易によって大繁栄しました。
アユタヤ王朝と聞いてもピンと来なかった人も、「シャム」や「山田長政」「日本人町」と聞くと、イメージがつかめるのではないでしょうか?山田長政が朱印船でこの国に来たのが1612年で、やがて日本人傭兵隊長となり、日本人町の頭領となったことは有名です。
(小学校の教科書に載っていましたね)アジア各国が次々と植民地化されるなか、アユタヤは欧米列強との巧みな外交政策を通して独立を貫き通しましたが、1767年、ビルマ・コンパウン朝のシンビューシンによって陥落し、400年に及ぶ王朝は幕を下ろしたのです。
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古代都市ポロンナルワ
ユネスコ世界遺産に1982年文化遺産として登録されている古代都市ポロンナルワは、スリランカで清潔で美しい町として知られる北中部州第二の都市であるポロンナルワの旧市街あります。
ポロンナルワは、城塞として建設されたのですが、スリランカの最初の王都アヌラダーブラが11世紀にインドのチョーラ朝の侵略を受け、ここポロンナルワに都を移したのです。
その後13世紀に再びインドからの侵略を受け王朝がさらに南にその拠点をうつすまで、ポロンナルワ各地に寺院やダーガバが築かれました。
現在のポロンナルワは、壮麗な王宮や寺院のほか貯水池や灌漑設備、防衛のための城壁の跡など自然に囲まれたパラークラマ・サムドゥラ(パラークラマ海)等で観光客から注目を集めています。
ポロンナルワの遺跡地区は、宮殿や寺院などといった様々な遺跡によって構成されています。
かつて7階建ての巨大な宮殿は、現在は3階分までしか残っていませんが、今に残るそのレンガの構造体から当時の宮殿の高さを感じ取ることができます。
遺跡の中央部には巨大なダーガバ(仏塔)を持つランコトゥ・ヴィハーラがあります。
このダーガバは、アヌラーダプラのルワンウェリ・サーヤ大塔を模して作られました。
また、ガル・ヴィハーラ寺院にはポロンナルワ独特の様式で作られたブッダの坐像、立像、涅槃仏の3体の石像があります。
中央の石像は、流線型の体を横たえ、涅槃に入ろうとする釈迦の姿をあらわしています。
全長は14m。
衣は、二重の線をくりかえすという、ポロンナルワ独特の模様であらわされている。
涅槃像の左は、仏陀の一番弟子アーナンダの立像で、高さは7m。
仏陀が涅槃に入ることをなげきかなしんでいる姿をあらわしたものとされています。
その左は瞑想する仏陀の座像で、高さ4.6m。
ポロンナルワ Ancient City of Polonnaruwa 所在国:スリランカ民主社会主義共和国 世界遺産登録年:1982年 世界遺産の種類:文化遺産 |
ユネスコ世界遺産に1982年文化遺産として登録されている古代都市ポロンナルワは、スリランカで清潔で美しい町として知られる北中部州第二の都市であるポロンナルワの旧市街あります。
ポロンナルワは、城塞として建設されたのですが、スリランカの最初の王都アヌラダーブラが11世紀にインドのチョーラ朝の侵略を受け、ここポロンナルワに都を移したのです。
その後13世紀に再びインドからの侵略を受け王朝がさらに南にその拠点をうつすまで、ポロンナルワ各地に寺院やダーガバが築かれました。
現在のポロンナルワは、壮麗な王宮や寺院のほか貯水池や灌漑設備、防衛のための城壁の跡など自然に囲まれたパラークラマ・サムドゥラ(パラークラマ海)等で観光客から注目を集めています。
ポロンナルワの遺跡地区は、宮殿や寺院などといった様々な遺跡によって構成されています。
かつて7階建ての巨大な宮殿は、現在は3階分までしか残っていませんが、今に残るそのレンガの構造体から当時の宮殿の高さを感じ取ることができます。
遺跡の中央部には巨大なダーガバ(仏塔)を持つランコトゥ・ヴィハーラがあります。
このダーガバは、アヌラーダプラのルワンウェリ・サーヤ大塔を模して作られました。
また、ガル・ヴィハーラ寺院にはポロンナルワ独特の様式で作られたブッダの坐像、立像、涅槃仏の3体の石像があります。
中央の石像は、流線型の体を横たえ、涅槃に入ろうとする釈迦の姿をあらわしています。
全長は14m。
衣は、二重の線をくりかえすという、ポロンナルワ独特の模様であらわされている。
涅槃像の左は、仏陀の一番弟子アーナンダの立像で、高さは7m。
仏陀が涅槃に入ることをなげきかなしんでいる姿をあらわしたものとされています。
その左は瞑想する仏陀の座像で、高さ4.6m。