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アッコ旧市街
アッコ旧市街は、レバノン国境に近いイスラエル北西部の港町に位置しており、その歴史は驚くほど古くて、紀元前20世紀には町の機能を備えていたとされています。
そして紀元前16世紀にはフェニキア時代に港湾都市として建設され、繁栄していたといわれています。
アッコは、アッカ、アッコン、アクレなどとも表記されています。
旧約聖書ではアッコ、新約聖書ではプトレマイスの名で知られています。
5世紀にはアルタクセルクセス王のエジプト遠征の基地でありましたが、後にビザンチン帝国、十字軍、イスラム教徒、オスマン帝国に支配されるという歴史があります。
18〜19世紀のオスマン帝国時代のイスラム的な都市デザインを濃厚に残すアッコ旧市街の地下には、1104年から1291年の間に築かれた、十字軍時代のヨハネ騎士団の本拠地となった町の都市遺構がほぼ完全な形で埋もれています。
良好な状態で保存された地下要塞は、中世の十字軍都市の設計及び建築に関する貴重な資料となっています。
アッコ旧市街 Old City of Acre 所在国:イスラエル国 世界遺産登録:2001年 種類:文化遺産 |
アッコ旧市街は、レバノン国境に近いイスラエル北西部の港町に位置しており、その歴史は驚くほど古くて、紀元前20世紀には町の機能を備えていたとされています。
そして紀元前16世紀にはフェニキア時代に港湾都市として建設され、繁栄していたといわれています。
アッコは、アッカ、アッコン、アクレなどとも表記されています。
旧約聖書ではアッコ、新約聖書ではプトレマイスの名で知られています。
5世紀にはアルタクセルクセス王のエジプト遠征の基地でありましたが、後にビザンチン帝国、十字軍、イスラム教徒、オスマン帝国に支配されるという歴史があります。
18〜19世紀のオスマン帝国時代のイスラム的な都市デザインを濃厚に残すアッコ旧市街の地下には、1104年から1291年の間に築かれた、十字軍時代のヨハネ騎士団の本拠地となった町の都市遺構がほぼ完全な形で埋もれています。
良好な状態で保存された地下要塞は、中世の十字軍都市の設計及び建築に関する貴重な資料となっています。
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蘇州古典園林(スゥツォグデンイェンリン)
蘇州古典園林は、中華人民共和国江蘇省東南部、蘇州にある庭園の総称です。
蘇州は、古くから絹織物で発展した国家歴史文化名城で、上海市に隣接する地の利があり、長江の南に位置する江南の主要都市として栄え、現在も省の経済的中心地です。
春秋時代に呉の都が置かれ、呉文化圏の中心であり、伝説によれば、諸樊がこの地を本拠と定め、諸樊の子孫の闔閭が呉の都として整備したと言われているらしいです。
臥薪嘗胆、呉越同舟の舞台です。
蘇州古典園林の庭園の多くは明の時代に建設されました。
これらの多くは地元の名士により作られたもので、個人の趣味で置かれたものです。
庭園は豊かな水を利用し、池を配置した素朴な美しさを特徴とししています。
登録された庭園は、拙政園・留園・網師園・環秀山庄・退思園・獅子林・滄浪亭・藕園・藝園です。
蘇州古典園林(スゥツォグデンイェンリン) Classical Gardens of Suzhou 所在国:中華人民共和国 世界遺産登録:1997、2000年 種類:文化遺産 |
蘇州古典園林は、中華人民共和国江蘇省東南部、蘇州にある庭園の総称です。
蘇州は、古くから絹織物で発展した国家歴史文化名城で、上海市に隣接する地の利があり、長江の南に位置する江南の主要都市として栄え、現在も省の経済的中心地です。
春秋時代に呉の都が置かれ、呉文化圏の中心であり、伝説によれば、諸樊がこの地を本拠と定め、諸樊の子孫の闔閭が呉の都として整備したと言われているらしいです。
臥薪嘗胆、呉越同舟の舞台です。
蘇州古典園林の庭園の多くは明の時代に建設されました。
これらの多くは地元の名士により作られたもので、個人の趣味で置かれたものです。
庭園は豊かな水を利用し、池を配置した素朴な美しさを特徴とししています。
登録された庭園は、拙政園・留園・網師園・環秀山庄・退思園・獅子林・滄浪亭・藕園・藝園です。
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サーンチーの仏教建造物群
サーンチーの仏教建造物群は、インド中部、マディア・プラデシュ州にあり、インドの首都ニューデリーの南約580Kmに位置しています。
釈尊滅後およそ100年の頃である、紀元前268年頃 〜 紀元前232年にマウリヤ朝の第3代の王であるアショーカ王は、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られています。
釈尊の遺骨は8つのストゥーパに分骨されていましたが、アショーカ王はさらに分けて、インド亜大陸全土に8万以上の寺院や僧院、ストゥーパを建立しました。
そのほとんどは、仏教の衰退とともに崩れ、焼け落ち、破壊されて消滅しましたが、サーンチーの丘の上には樹木で覆われ、人々から忘れ去られていたことから、奇跡的に3基のストゥーパがほぼ完全な形で残されています。
第1塔は大ストゥーパで、第2塔は丘の下に1つだけ離れてたたずんでいて、第3塔は仏陀の高弟である舎利弗の遺骨が納められています。
今では、サーンチーは世界の仏教徒にとって、聖地のひとつになっています。
サーンチーの仏教建造物群 Buddhist Monuments at Sanchi 所在国:インド共和国 世界遺産登録:1989年 種類:文化遺産 |
サーンチーの仏教建造物群は、インド中部、マディア・プラデシュ州にあり、インドの首都ニューデリーの南約580Kmに位置しています。
釈尊滅後およそ100年の頃である、紀元前268年頃 〜 紀元前232年にマウリヤ朝の第3代の王であるアショーカ王は、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られています。
釈尊の遺骨は8つのストゥーパに分骨されていましたが、アショーカ王はさらに分けて、インド亜大陸全土に8万以上の寺院や僧院、ストゥーパを建立しました。
そのほとんどは、仏教の衰退とともに崩れ、焼け落ち、破壊されて消滅しましたが、サーンチーの丘の上には樹木で覆われ、人々から忘れ去られていたことから、奇跡的に3基のストゥーパがほぼ完全な形で残されています。
第1塔は大ストゥーパで、第2塔は丘の下に1つだけ離れてたたずんでいて、第3塔は仏陀の高弟である舎利弗の遺骨が納められています。
今では、サーンチーは世界の仏教徒にとって、聖地のひとつになっています。