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コモエ国立公園
コモエ国立公園とは、コモエ川流域に広がっている西アフリカ最大の国立公園です。
川沿いに広がる湿地帯とサバンナに恵まれ、コートジボワールのブナ県、フェルケセドゥグ県にまたがっています。
1983年、ユネスコの世界遺産に登録されたのは、この地域にレイヨウ、イボイノシシ、スイギュウ、ゾウなどが生息していて、このような多種多様の動物相と植物相が評価されたことが理由です。
また、コモエ国立公園一帯には、ロビ族という民族が住んでいます。
コモエ国立公園一帯は、昔から象牙を目的とするゾウの狩猟が行われてきた地域で、世界遺産登録後も密猟が絶えないのが現状です。
こうした密猟及び牛の過放牧、公園全体の管理の欠如などにより、2003年に危機遺産に登録されました。
サバンナや湿原、森林からなる自然の宝庫と言われているコモエ国立公園は、1983年には、禁猟区となったのですがその後も密猟は全く絶えず、アフリカゾウなどの数は急激に減少し、絶滅した動物もいます。
密猟者から公園を守るため、徹底した保護対策が早急に実施される必要があるでしょう。
コモエ国立公園 Comoe National Park 所在国:コートジボワール 世界遺産登録:1983年 種類:自然遺産/危機遺産 |
コモエ国立公園とは、コモエ川流域に広がっている西アフリカ最大の国立公園です。
川沿いに広がる湿地帯とサバンナに恵まれ、コートジボワールのブナ県、フェルケセドゥグ県にまたがっています。
1983年、ユネスコの世界遺産に登録されたのは、この地域にレイヨウ、イボイノシシ、スイギュウ、ゾウなどが生息していて、このような多種多様の動物相と植物相が評価されたことが理由です。
また、コモエ国立公園一帯には、ロビ族という民族が住んでいます。
コモエ国立公園一帯は、昔から象牙を目的とするゾウの狩猟が行われてきた地域で、世界遺産登録後も密猟が絶えないのが現状です。
こうした密猟及び牛の過放牧、公園全体の管理の欠如などにより、2003年に危機遺産に登録されました。
サバンナや湿原、森林からなる自然の宝庫と言われているコモエ国立公園は、1983年には、禁猟区となったのですがその後も密猟は全く絶えず、アフリカゾウなどの数は急激に減少し、絶滅した動物もいます。
密猟者から公園を守るため、徹底した保護対策が早急に実施される必要があるでしょう。
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キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群
キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群とは、現在は木々に埋もれて廃墟と化した遺跡が残るのみですが、ユネスコの世界遺産に登録されている物件で、タンザニアにあります。
キルワ・キシワニ島は、東アフリカ(現タンザニア領内)沖に浮かんでおり、中世には重要な交易地として栄えました。
キルワ・キシワニ島には、イスラム教徒のコミュニティが現在も存在しています。
この島は、商人アリ・ビン・アル=ハサンに9世紀に売り渡され、以降の数世紀にわたり、交易の拠点たる大都市として成長を遂げました。
ジンバブエからの黄金や鉄、アジアからの繊維、宝石、陶磁器、香辛料、タンザニアからの象牙や奴隷、などが取引されていました。
キルワは東アフリカ沿岸部最大の都市となり、13世紀までに、マフダリ家の支配の下で、その影響力はモザンビークにまで及びました。
フスミ・クブワ宮殿の建造や、キルワの大モスクの拡張が、この時期よりあとに行われました。
対して、キルワ・キシワニと違い、ソンゴ・ムナラ島は、14世紀から15世紀頃に繁栄していたらしいと言うことが分かっているのみで記録はほとんどありません。
5つのモスクの廃墟などが残っていますが、ソンゴ・ムナラ島は、現在マングローブ林などに埋もれています。
キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群 Ruins of Kilwa Kisiwani and Ruins of Songo Mnara 所在国:タンザニア 世界遺産登録:1981年 種類:文化遺産/危機遺産 |
キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群とは、現在は木々に埋もれて廃墟と化した遺跡が残るのみですが、ユネスコの世界遺産に登録されている物件で、タンザニアにあります。
キルワ・キシワニ島は、東アフリカ(現タンザニア領内)沖に浮かんでおり、中世には重要な交易地として栄えました。
キルワ・キシワニ島には、イスラム教徒のコミュニティが現在も存在しています。
この島は、商人アリ・ビン・アル=ハサンに9世紀に売り渡され、以降の数世紀にわたり、交易の拠点たる大都市として成長を遂げました。
ジンバブエからの黄金や鉄、アジアからの繊維、宝石、陶磁器、香辛料、タンザニアからの象牙や奴隷、などが取引されていました。
キルワは東アフリカ沿岸部最大の都市となり、13世紀までに、マフダリ家の支配の下で、その影響力はモザンビークにまで及びました。
フスミ・クブワ宮殿の建造や、キルワの大モスクの拡張が、この時期よりあとに行われました。
対して、キルワ・キシワニと違い、ソンゴ・ムナラ島は、14世紀から15世紀頃に繁栄していたらしいと言うことが分かっているのみで記録はほとんどありません。
5つのモスクの廃墟などが残っていますが、ソンゴ・ムナラ島は、現在マングローブ林などに埋もれています。
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カルタゴ遺跡
カルタゴ遺跡とは、チュニス(チュニジアの首都)から車で約30分、ちょっと郊外へ行ったところにあります。
かつての大帝国の首都カルタゴは、紀元前9世紀頃、アルファベットの原形を考案したことで有名なフェニキア人によって開かれました。
その後、商才と航海術に才覚を発揮したフェニキア人と呼ばれる民族は、地中海貿易で巨万の富を蓄え強大な軍隊を持つ国になっていました。
そんな中、その繁栄ぶりは、当時もう1つの覇者として名高かったローマ帝国の怒りを買ってしまい、戦いになりました。
それがボエニ戦争です。
その後、ローマやギリシャとの地中海の覇権争いを数回繰り返すことになります。
カルタゴは惜しくも1回目、2回目と敗戦したのですが、脅威の経済力で復興しました。
ところが、それがまたローマ帝国の怒りを買ってしまう事になるのです。
ハンニバルで知られるカルタゴ軍はローマとの3度のポエニ戦争の末、紀元前146年にローマに大敗し、カルタゴの街は二度と再建出来ないよう17日間も火で燃やされ、その後は徹底的に完全に破壊されてしまいました。
そのちょうど100年後、ローマの植民都市として再建され、施設や街が整備されたのです。
カルタゴ遺跡 Site of Carthage 所在国:チュニジア 世界遺産登録:1979年 種類:文化遺産 |
カルタゴ遺跡とは、チュニス(チュニジアの首都)から車で約30分、ちょっと郊外へ行ったところにあります。
かつての大帝国の首都カルタゴは、紀元前9世紀頃、アルファベットの原形を考案したことで有名なフェニキア人によって開かれました。
その後、商才と航海術に才覚を発揮したフェニキア人と呼ばれる民族は、地中海貿易で巨万の富を蓄え強大な軍隊を持つ国になっていました。
そんな中、その繁栄ぶりは、当時もう1つの覇者として名高かったローマ帝国の怒りを買ってしまい、戦いになりました。
それがボエニ戦争です。
その後、ローマやギリシャとの地中海の覇権争いを数回繰り返すことになります。
カルタゴは惜しくも1回目、2回目と敗戦したのですが、脅威の経済力で復興しました。
ところが、それがまたローマ帝国の怒りを買ってしまう事になるのです。
ハンニバルで知られるカルタゴ軍はローマとの3度のポエニ戦争の末、紀元前146年にローマに大敗し、カルタゴの街は二度と再建出来ないよう17日間も火で燃やされ、その後は徹底的に完全に破壊されてしまいました。
そのちょうど100年後、ローマの植民都市として再建され、施設や街が整備されたのです。